2011年01月31日

「悪くても感謝」

 「悪くても感謝」とある二世俳優が話していた。
「良いことに感謝」することがあっても「悪いことに感謝」すると言ったことは、めったにきかない。
 病気になって、入院を余儀なくされた時など「これは、今を見つめ直す良いチャンスである」と感謝するそうである。
 「何かの仕事が出来なくなったときは、新しいチャンスが生まれる。」
と感謝するのだそうである。
 なるほど、心理学用語でいう「ゲシュタルト」柄と地を反転する考え
に似ている。
 窮地をチャンスに変えることが出来る方法でもある。しかし、基本的には、反転できるのも、反転した世界をつくり出す、反転した世界に生きる能力を持つ必要はある。
 それにしても、「悪くても感謝」するは、心の新境地に至る、窓口になるかもしれない。
     
posted by 東葛MAXゼミ at 23:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月28日

「光陰」

 「光陰矢の如し」と云いますが誠にその通りと感じています。
この、光陰は、時には非情な事態を引き起こすことがしばしばある。
体の変調などが特にそうで、少し具合が悪いと思っていっても、大丈夫を思い月日を経過させてしまう。いつの間にか、数ヶ月、1年とたってしまい病気を進行させてしまうのである。
 友人関係などの人間関係もついつい連絡を長引かせ大切な人を
失う結果になる。
 また、こじれた人間関係など、一層回復に時間が掛かる結果になる。
 何がの事業においても、チャンスを失ったりや停滞を招き、気づいた
時には、坂道をこころげ落ちることとなる。
 「光陰」は、厄介で、とくに油断するといけない。
 ですから、日頃より「一所懸命」がよろしい。反省ばかりであるが。
posted by 東葛MAXゼミ at 19:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月26日

「今日思う人生」

 作家、瀬戸内寂聴が書く文章に次の一説がある。
「振り返れば人生とは、会うべくして会った、なるべくしてなった」「大きな摂理の中で動かされてきた。」と言うほかない。としている。
 私も、振り返ってみると、皆そんなに大差なく平らなようなきがする。
 しかし、平らでも、充実感は、人それぞれのような気がする。
 「命がけで生きてきた」者とそうでなく生きてきた者とは充実感は違う
だろうし、人生を掛けられる仕事を持った者とそうでない者との幸福観隔たりも大きいと思われる。
 「一生の仕事を持つことは、その人にとって幸いなこと」である。
よくおくふろが「一生の仕事を持ちなさい。」と口癖のように云っていた。自分にとっては「教員」として、今でも教育関係者としていられる
ことは幸いである。
今日も塾生と将来について話し合うことが出来た。
塾生の母親は「資格を持ちなさい」といっているという。
 確かに、「資格」は、安定した生活をする為のパスポートである。
 「資格」は安心して生活するための糧になり得る。
 私も大賛成である。
 「美容師になって店を持つ」ことが中2女子生徒の希望であると言いう。とてもよいことである。
 小学6年生の男子の一人は、「船乗り」になるため「商船学校」を
目指したいとのことである。
 前年秋に、鉄道員になりたかった卒塾生が「東武鉄道」に入社できた。とても嬉しいことである。
 今、人生について塾生と話せることは、自分にとって感謝できる人生
を送っているような気がする。
 あす、また頑張れる。
posted by 東葛MAXゼミ at 23:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「兄弟姉妹」

 私は、兄弟姉妹5人いた。一番下だ。よく「バッチ」と言われた。
末っ子の意味である。
 姉二人は、8才と生まれて8が月で亡くなった。病気である。
残ったのは、男3人で物心付くまで、男3人兄弟だとばかり思って
いた。
 今や、その兄達も、病気が原因で他界し、自分一人となった。
勿論、父親も2歳のとき母親も自分が21才の時亡くなっている。
しかし、ことあるごとに兄達は、側にいるようような気がしている。
 先日新聞で、斉藤茂吉の詩が載っていた。
 「弟と相むかいてものをいふ互(かたみ)のこえは父母のこえ」
 とあった。
 自分も時より、塾生と笑うが、その笑い方、声は直ぐ上の兄と
良く似ている。「はっとする」し、複雑な気分にもなる。
 遺伝子は、脈々と続く。「血は争えない」とよくいうがその通りである。
 現在、怠慢のつけがまわり、苦境にある。生きていた時には、頼りにしなかった、兄貴達に相談したい気分になっている。
 不思議なものである。「霊験」があるように思えてくるからだ。
 しかし、「沈黙」あるのみである。
 その沈黙の中に、ふつふつと感じるのが「働き者」の遺伝子である。
 人の助けをかり感謝しながら「働く」しかない。このことである・・・・・
posted by 東葛MAXゼミ at 14:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月21日

「つけ」

 「つけを払う」、「つけを回す」といったことをよく言うが、この「つけ」を溜めるとえらいことになる。
 仕事にしても、きちんと始末せずにいると、溜まりに溜まって処理できない状況になり、誤魔化すか、誰かの手を借りることとなり信頼を失う。また、人生といった長いスパンで考えても、疲労や暴飲、暴食のつけは生活習慣病となって現れる。この「つけ」は相当痛い。
 そこで、「つけ」のない生活をしようとするが、これがまた難しい。
見方を変えたりすると、「つけ」はどんなところでもついてまわる。
 「つけ」のない生活はないと思ってよいような気がする。
 「リスクマネージメント」は「つけ」の一部は解消できる。
 「つけ」を少なくするするには、どうすれば・・・「一生懸命」が特効薬になりそうである。
 いま、私は、「一所懸命」が必要な時期である。
posted by 東葛MAXゼミ at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

「現実と希望」

 「現実の先に希望がある。」と云った人がいた。
 役立つ表現である。
 「何でこんな勉強をするの?」のいう塾生がいたりする時、指導しやすい。「希望といかなくても、何かやりたいことがあった場合、現実で歩を進めない限り、やりたいことは見えてこない。希望が持てない、実現
することは出来ないからである。現実での努力なしに夢を追うは、夢想にすぎない。
 夢と現実とは陸続きなのだ。避けて通ることは出来ないのである。
「現実の先に希望がある。」は、名言である。
 
posted by 東葛MAXゼミ at 20:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

余白と沈黙

 「余白の美」と書道界では云われ、用紙に墨で書かれた文字と余白とのバランスを大切にする。熟達すると、文字以上に余白の形が
一種のリズムを生み出す。
 リズムといえば、ピカソも絵画から音楽を感じて欲しいと云っていた文を読んだことがある。絵画の主題と背景の妙でる。
 文学でも、「言葉と沈黙」とがあって、言葉は文体、文章であり、沈黙とは何かと思えば余白であるという。上手い表現である。
 教育委員会の指導主事であったと時、先生方の国語の授業指導
にあたり、「文学教材は行間を大切にしましよう。」といい続けてきたが
具体的指導(自分の思いを語るため)となって、文学の面白さが半減することがあった。

 このとき、「言葉と沈黙」とを持ち出し、先生方と研究したらもっと先生個人の児童生徒の豊かな発想を引きだせたと思った。
 勉強不足を今日気づかされる。残念である。
 文章間の「沈黙」いろいろ思い起こす。感性が踊りだす。
 「神は沈黙する。」といった人もいた。
posted by 東葛MAXゼミ at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月18日

「違和感」2

 年齢が高くなったせいか、最近違和感を感じることが多くなった。
それは、車を運転していても、目の前を横断するにしても歩みを速めるわけでもなく、運転者に気をつけるふうもなく、譲り合いの精神など
ほとんど感じられない。
 また、順番を待つ状況においても、順番を守ることは勿論であるが
譲りあうことがことをスムーズに行く場合いでもそのようなことをする人者が少なくなった。
 受けた親切は親切で分かっているが、それを、返そう、応えようとすることもあまりしない。
 何となく、人情のつながりが薄くなっている社会のような気がする。
 譲り合い、親切な行為、人情の繋がりが面倒と感じる社会になっているからかもしれない。人間のロボット化、人間がロボットをつくる
のではなく、人間がロボット化していくのかと思うくらいだ。 
 
posted by 東葛MAXゼミ at 02:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月17日

「卒業アルバム」

 先日、小学校教師時代の教え子の卒業文集を引っ張り出す機会があって見てみた。30年前のものである。
 勉強の思い出、運動会、修学旅行、市内の陸上、水泳、マラソン
大会での活躍、絵画、作文、書写、毛筆展、理科研究などで賞を貰ったことなどびっしり書かれていた。
 また、00チャンが好きだった。などと、異性を意識した文章もあった。中でも、私に対する文章もあった。「先生と掛けて何と解く、その心は幽霊と解く、どちらもおっかない。」などと文末にあった。漫画もあった。半分鬼で半分わらい顔の私の顔を描いた者、今であったら、
体罰のあった教師と教育委員会に電話されるような「ビンタされた」
の記述がお世話になったといった感謝の文章と共にあった。保護者の
コメント欄にも感謝である。今では考えられないことでもある。
自分には、全くその児童手を上げた記憶はなかった。
 一番感動したのは、文集の作文と児童名にふれると、ひとりひとりの
顔や年格好が鮮やかに思い浮かぶ。目つきや声まで蘇る。困った顔
嬉しい顔、口を尖らせ話しかける動作まで蘇る。不思議である。
 4、5、6年と受け持った児童は、顔つきや容姿の成長まで浮かんでくる。記憶の玉手箱が開かれた感じである。次から次と浮かんでくる。不思議である。一人で夜中に笑っている自分があった。他の人
からみたらなんだろうと思うかも知れない。
posted by 東葛MAXゼミ at 01:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月14日

「高校生の歩け歩け大会」に遭って

 きょうは風も無く暖かな一日であった、1月半ばでは珍しい。
近くの江戸川土手を歩いていると、高校生が列をなして歩いている。
聞いてみると、港区にある某私立高校の全校生徒の10キロの歩け歩け大会であるという。
 高校生の気分転換、精神衛生上良いものと感じられた。しかし、急いでるふでもなく、漫然と歩いている。これでいいのかと思われてきた。お年寄り有志の弁当持参の一日散歩ならよいが、若くぴちぴち
の高校生では見ていて、様になっているとは思わなかった。
 何故だろう。高校生のマラソン大会、持久走大会なら良く見かける。それらと比較してはいけないし、目的が違う、「歩け歩け大会」かと思ったりした。
 しかし、都内中心地の高校生が、全校行事として危険が多く走ることができないとなると、将来の日本はどうなるのだろう。
 教育はどうなるのだろう?と思う今日の午前中であった。
「走れない」若者であってほしくないと・・・・・・
posted by 東葛MAXゼミ at 16:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月13日

ふと思う「顔」

 良くてテレビで、外国の子ども達と日本の子ども達のやその様子が
映し出される。
 その時思うことであるが、貧しくとも外国の子ども達の目が輝いているようにおもう。

 日本の子ども達の目は、何か精彩がない。
 日本の子ども達は、満たされているのか、何処か希望がないのか
目力が感じられないのである。
 これでいいのかな?と、ふと思ってしまう。
 大人でもそう感じるときがある。日本の首相が、外国の要人と集合
写真を撮る時の顔も何か、迫力にかける。何をしにいったのか成果が
あったのかはっきりしない顔つきであることが多い。だだ要人と並んでいることに喜びを感じてしまっているように思える。
 スポーツの対抗戦でも勝つ日本の選手の顔つきは違う。目に力が
ある。救いである。
 日本人の顔と将来を思うに、これでいいのかな?と、ふと思うことが
ある。
「ふと思うこと」が度々である。
posted by 東葛MAXゼミ at 17:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「変化」

 変化といえば、大きな変化は、自然である。
確かに、山は今も昔も変わりなく、川は悠久の流を保ちといったところですが、私の子どもの頃と今は大きく違う、わずかと云っていい、数十年前の話である。
 この辺の川から、めだかが消え、たなごが消え、くちぼそうが消え、たにしも消えた。ざりがにさえめったにお目にかかれない。
 近くの江戸川には、あゆが飛びは跳ねた。出世魚と云われる、ぼら
の幼魚のセイゴもいた。皆周りから消えた。
 気候も寒い寒いと云ってはいるが、満天の星空に、貰い湯の手ぬぐいはあっというまに棒立ちになった。氷つくのだ。この辺で・・・・
 季節もはきりとゆっくり変わった。今は、激しく、何が起こるかわからないように変化する。したがって、経験による予測は事故のもととなる。 
 こうした変化は、人にも及ぶ。間違いない。川同様に、人の心から沢山の豊かさを失しなわせる結果になっている。「孝行」「質素」「倹約」「素朴」「勤労」が失われた。そのうち「感謝」「素直」「真面目」「正直」が失われるであろう。「流は、善くよくない」・・・・・
 
 
posted by 東葛MAXゼミ at 02:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月12日

「約束と言い訳」2

 予想通り、先般の中国女性とトラブルになった。
 このことで学んだことがあった。
 勿論、契約をすべきであったことは間違いない。
他に、相手の話を良く聞く、理解し難かったら、ポイントをまとめて
質問すべきであった。
 また、相手の剣幕、誤解ある発言、我がままな状況に乗って、同じ土俵に上がってしまいお話にならなかったこと。
 一歩引いて得を取るところ、出張って対立の構図を取り損をして
しまった。
 なかなか、相互に理解するのは時間がかるし困難であった。
 次に繋がる、出来事ではあった。
posted by 東葛MAXゼミ at 01:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月10日

「約束と言い訳」

 「約束事は守らなければならない。」
世の常識である。しかし、結構、守らないケースを持つ。
後回ししてしまい、結局約束を守らない事態いになってしまう。
待ち合わせ時間など、待たせるのが気の毒に思い、ぎりぎりに約束する。それがいけない。破らないまでも、遅れる結果になる。
 こんな時、言い訳いって誤魔化し、相手の寛容な判断や心情に助けられる。しかし、ほんとうは、大きな損失を被っている。
 信用を喪失と人格への懐疑である。相手も自分自身にもである。
話はややかわるが、現在、中国女性の医療従事者資格の取得のため、数学、国語、論文指導を受け持っているが、指導時間、指導内容、指導開始時刻、指導料金、調査費用などで文書による取り決めをする必要に迫られている。
 少しの指導時間でもトラブルになりそうな感じを持っている。
 日本人的な口約束では収まらないのである。ビジネスとなると
「契約」である。ちょっとの間の指導といったことで「約束」でとどめようと
したのが誤りであった。「契約」となると利益と損失が明確である。
 約束は、目に見えない人格と人格としての契約である。
 約束は、人間しかできない。 心しておきたい。 塾生の指導にも生かしたい。
posted by 東葛MAXゼミ at 11:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「天秤」2

 天秤で重さを比べると、ほんの少しでも重さの違いがあると傾いて
しまう。傾くと大きくちがう。
 日頃の物事を選択判断するのも、少しのことで右に行ったり、左に
いったりしているようきがする。
 競争でも成績でも最後の一踏ん張りが、毎日の小さな積み重ね
が、勝敗を決するようなきがする。
 この少し、刹那の努力が人間生きていくには非常に大切なようなきがする。
 ほんの微量で傾き始めると後は非常なちがいとなる。右の曲がって
進めば道や世界は大きく違ってくる。
 人間の進化の過程でも生活圏の寒暖の選択の違いで、猿のままか、現代人になったかの違いとなる。
 はじめはほんの少しの違いである。この微量なものは、決して侮れない。感覚を研ぎ澄まし、確かな心眼で、自分にとって納得できる方向に行きたいものである。幸せの方向や世界にいくために・・・・
 そのためには、基本として自己の確立、素直な性格、豊かな人間関係をつくれる人間になるよう努力したい。
posted by 東葛MAXゼミ at 01:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

「最近教育界の動き」

 最近の教育界の動きの中で、近い将来大学院を卒業した者が
担任になれる。といった制度を設けようとしていると聞いた。
 そうでない4年大学の卒業生は、副担任であると聞く。
 確かに、大学を卒業、教員採用試験に合格した者が、担任となって、特に小学校などは、直ぐに教育活動が4月よりはじまる。
 このことは、問題が多くはらんでいるいることは間違いない。
 しかし、大学院大学でどのような教育を受けるか未知であるが、
やはり、卒業してすぐに、あるいは、未知数のまま、担任となる形となろう。それが、はっきりと担任となれるとなったりすると、現場では考慮
の選択肢がなくなりギクシャクする結果につながる。
 国は、教育をいつも金のかからない方途で制度化し、100年の計の教育をいじり、あたかも、仕事をしているといったパフォーマンスを見せている。それでいて、財政が圧迫しているのに、高校の無料化など
本当に必要なのか、疑問の残ることをしている。
 現場に任せない、信用しない、高みから制度は、効果が薄い。
担任制度にせよ、無用化にせよ教育現場に予算や人的投入をし、検討の機会を与えればきっと良い案が生まれるはずである。
 お金を教育現場に使い先生方を増やせば、実践を通し現場に合った担任教師を決めることができるはずである。
 それに、安心安定して働けるから教育に創意工夫出来る教員に
に争議権を与え、お金の件についても責任をとらせ、教員を一層
多忙に、不安定にしようとしている。「愚」である。
 表面の策、絆創膏的策でなく、人心が物質化、硬化しているところ、人心乱れを何とかする政策がほしいと感じる。
posted by 東葛MAXゼミ at 08:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月07日

 「準備」

 何事にも準備しておくことが大切であり、成功の鍵を握っているこ
は承知していたが、最近ののことが不足しているのか、思うように物事がスムーズに機能しない。
 教員の時代も教材研究などして授業に臨むと上手くいくことが多くあった。時には入れ込み過ぎて、生徒とかけ離れたものになって、失望することがあったが、大概はちょっぴり成功感を味わうことができた。
 最近この成功感が準備不足のため味わえないでいる。このことが、指導の喜びに繋がらず思った成果に繋がっていないように思う。
 講師の皆さんは、準備万端な状況なので一方では安心しているが
自分は、さらに「準備」の二文字に活動の柱にして行きたいと考え
ている。よって、物理的な時間と教材の一層の充実を図りたい。
posted by 東葛MAXゼミ at 16:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月06日

冬期講習の終了

 冬期講習が本日で終了した。
流山教室、新松戸教室で13日間実施した。
やはり、参加が多く、積極的に勉強した生徒は、実力がついた。
毎日指導している中で感じたのは、あたりまえだが、真面目に勉強や
物事に取り組んだ者が、安定しているし、将来の生き方に確実性
が見えている。
 13日間程度で違いが生じるのだから、毎月、毎年となるとだんだんと差が大きくなり、人生に豊かさの濃淡がつくように感じる。
 同じ人生ならば、中途半端より、充実して豊かなほうがいいに決まっている。
 できるだけ、手をかして自らも豊かな人生になるよう頑張っていきたい。 
 
posted by 東葛MAXゼミ at 23:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月05日

「引き出す」−可能性

 教育は、教え育てる他に、引き出す作用を持っているように思う。
生徒の能力の潜在性に焦点を当てる指導、生徒の性格に働きかける指導になるかと思われる。
 よって、集団指導(学校教育等)では難しいものがあると考えられる。
なぜなら、生徒の潜在性など刻々と変化するし、性格といっても、それこそ正確に把握することは困難である。
 そこで、、一教師に対し数人、あるいは、個人で指導が行われる必要がある。いわいる子弟関係のような形で学習活動が展開される。
 塾においては、このことが可能である。そのよい例が、松下村塾の
歴史的結果である。
 このことを根底において、生徒の潜在能力を見出し、引き出せる
時生徒の感動と喜びは必然的に湧いてくるはずである。
 また、性格に合う、変化に対応できる指導は、生徒にとって心地の
良いもの感じられるし、分かり合える安心感が生じるはずである。
 塾長として、このような指導が展開できる塾にしていきたい。
posted by 東葛MAXゼミ at 15:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

新春にあたり

 2011年の幕開けに思う。
今年も早、4日目。当塾の冬期講習も終盤に入っている。
受験生は、真剣。伸びもよい。
 いつも、真面目で真剣な塾生はのびる。課題意識があるからだ。
目的意識と言ってもよい。それが、段階的に達成され、進歩の実感
や喜びが伴うと一層よいとおもっている。
 1、2年の時期、毎日の学習の中でそのことが感じられると、
OKだ。
 塾でも、このことに加え、楽しさが感じられるようにしたいと思っている。が、なかなかスムーズにいかない塾生もいて工夫が必要である。
 新春にあたり、如何に塾で勉強して、「分かった」「出来た」「伸びた」「楽しい」といった実感が味わえる塾にする努力をしたいとおもっている。
 そのために、学習内容の段階化や補助プリント等の充実を図りたい。
 性格が実力を決める要素もあるので個人に合った指導法も工夫
したい。
posted by 東葛MAXゼミ at 14:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。